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三元里 [中国]




『ドキュメンタリー・ドリームショー〜山形in 東京2008・前夜祭』(9月15日)にて『三元里』+プロデューサーの欧寧のトークショーを観た。
今年の『ドキュメンタリー・ドリームショー』は、なんと、「オキナワ、イメージの縁 映画編」「中国・記録映画の20年」という特集を同時にぶつけて来た。もう死にそう。「中国ー沖縄ー日本」という東アジアの連なりを考える上でこの上ない企画だと思う。この際、チベット問題も絡め、楽しみたい。

http://www.cinematrix.jp/dds2008(9月30〜11月14日)



『三元里』(2003年)は 『follow me〜』でも展示上映されていましたが、音楽をDickson Dee(a.k.a.李勁松)が担当している点でも注目の作品。今回はじっくりと腰を据えて観ることができた。欧寧とDickson Deeは古くからの友人なのだそうだ。
(関連記事→http://e-train.blog.so-net.ne.jp/2005-09-26)

44分の映像はモノクロで統一され、ミュージックビデオクリップのようなスタイリッシュさを持つ。ナレーションはなく、音楽が重要な役目を担っているが、広州の中の旧市街・三元里という都市の成り立ちを扱うドキュメンタリーでもある。(三元里は犯罪多発スラム街という側面もある)
冒頭に粤劇のシーンがあり、阿片戦争時に三元里の村人がイギリス軍を果敢に追い返した歴史を語る。珠江(パール・リバー)からニュー・タウン、そして旧市街へカメラは猛スピードで移動して行き、速度を自由に変えながら、縦横無尽に都市の内部を映し出して行く。


【農村の都市化】
欧寧の説明によると、三元里はかつて農村であったが、80年代に急速に都市化が進み現在の形になったという。「都市内村落」というその独特の町並み形成には、次のような理由がある。1949年社会主義政権樹立とともに、かつて地主のものであった土地が国有化された。土地は農民に与えられたが、農村共同体としての所有となる。(注)80年代の工業化に伴う急激な移民流入で、村は共同体ゆえに自由に土地を売却することができず、自分たちで建物を建て増しし、それを移民に貸し出すという形で生計をたてるようになった。
今、中国の各地の農村で起きている問題は、国が農村共同体から土地を買い上げるときに農民たちと折り合いがつかないためだ。しかし、この現象には長所もあって、農民たちが政府に対して権利を主張し、交渉するというプロセスを持つようになった、と欧寧は付け加える。

(注)中国には独自の戸籍制度があり、農民の身分は固定されている。農民は村の土地を「耕作する権利」をもっているだけ。最近、その「耕作権」の売買、賃貸が認められる決定がなされたが、依然として土地の売買は禁じられている。

【制作過程】
制作は欧寧+曹斐がオーガナイズする「縁映会」(U-theque)というグループによるもの。(1999年、広州・深圳で発足し、一時期メンバーは800人いたと言う)2003年のヴェネチア・ヴィエンナーレのために制作されたもので、参加メンバーは建築家、ジャーナリスト、ミュージシャンなど職業は様々で、6台のカメラを使い、毎週のミーティングを10回ほど重ね、次に何を撮るか議論をしながら進めたという。
音楽に関しては、簡単なサンプルを作り、それをたたき台にDicksonと話し合い、5部構成の楽曲を作ってもらった。それを元に映像を編集したという。(かつて、Dickson deeの音楽を聴いていると大きな構造物が見えてくる、とここで書いたのだが、まさに彼の音楽なしにこの作品は成立しないのであった。李勁松名義でサウンドトラックをリリースしている)

【オルタナティヴ】
ナレーションのない、詩的なものを作りたかった。例えば1930年代のアメリカ・ロシアのサイレント映画のようなもの。ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929)には特に影響を受けた。
作品の中に三元里・抗英記念碑の前で共産党によるセレモニーの様子を写したシーンがあるが(三元里が政治シンボル化されている)、共産党が作るような公式のアーカイヴではなく、オルタナティヴなものを作っておきたかった。ラストに流れる歌は、学生時代によく三元里に通った頃、92年頃に書いたもの詞が元になっている。三元里というところは、移民の人がひとまず行く場所で、お金が溜まったらまた別の場所に行くという中継地点として存在している。

【大柵欄(ダーチャーラン)プロジェクトについて】
欧米の都市部は空洞化が進む一方で、アジアは拡大化するのが特徴。(例えばデトロイトはフォード工場の移転で、都市部は空洞化している)北京は広州とは違い、都市化の速度が緩やかだったために、村(=都市内村落)が残っておらず、三元里のような魅力的なところがなかった。そこで目をつけたのが天安門近くにある「大柵欄」だった。ここは明・清朝時代に商業センターだったところで(花街でもあった。妓女が逃げないように柵があったらしい)、80年代に、マーケットの中心が東の朝陽区の方へ移って行ったためスラム化した場所だ。紫禁城の近くにあったため、高いビルもたてられず、下町風情が残っている。05年〜06年の4ヶ月間、20人ほどのチームを作り取材した。
政府はメインストリートの前門大街を8mから25mに広げる計画を発表。あるレストランが取り壊しの憂き目に合う。店主は保証金をよこせとデモンストレーションし、一躍マスコミで有名になった。そこで、彼にカメラを貸し渡して、レストランが壊されるまでの攻防を延べ60時間に渡り映像に納めた。作品は市民の政治参加を捉えたドキュメンタリーになった。


欧寧氏のブログ:http://www.alternativearchive.com/ouning/
ROOTというサイト:http://www.rootroot.net/contents_index.html
(北京在住のアーティストの生のインタビューが読めます。ブログも面白いです)

Dickson Deeのブログ:http://www.dicksondee.com/blog/
Noise Asia; http://www.noiseasia.com/



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