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GIE [インドネシア]

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●『GIE(ギー)』(05)リリ・リザ監督

「現代アジアの作家たち〜福岡市総合図書館コレクションより」@京橋フィルムセンターのプログラムで観る。
衝撃を受けた。これは10年に1度出るか出ないかの傑作じゃないだろうか?
リリ・リザ監督の作品は『虹の兵士たち』に代表されるような、職人的な国民映画を撮る一方で、『エリアナ・エリアナ』『ティモール島アタンブア39℃』など作家性のある映画も撮るという認識はあったが、この作品は間違いなく彼の代表作だと思うし、これを観てないと監督の資質を見誤りかねないほどの重要作だろう。
これほどまでの作品が一般公開もされず、一部の映画祭どまりなのか不思議でならない。インドネシア現代史の複雑さが要因かもしれないが、『アクト・オブ・キリング』も公開されたので、今なら受入れやすいかもしれない。


    
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政治運動のリーダー、ジャーナリストとして生き、27才の若さで亡くなった中華系インドネシア人スー・ホッ・ギー(Sue Hok Gie/蘇福義)の生涯を描いた作品。彼が残した日誌をもとに脚色されている。

1942年12月17日、(海南を祖先にもつ)華人の家庭に生まれたギーはジャカルタにあるストラダ中学校に通い、ハイリル・アンワル(Chairil Anwar)やジッド『放蕩息子の帰還』などの本に親しみ、1956年のチキニ地区でスカルノの暗殺テロ未遂が起きたときは14歳。既に正義感と反骨精神を持っており、成績が下がり教師から注意を受けると、「先生は神様じゃないし、生徒は水牛ではない」とたてつくような態度をとり、翌年キリスト教系の学校に転校する。さらに、タゴール、アミル・ハムザの詩、「ジャガラ王とシア姫」、トリフィドのSF、「ロミオとジュリエット」などを読み漁る。

高校卒業後、カニシウスカレッジを経て1962~69年までインドネシア大学(IU)に在籍し、卒業後は母校で講師を務めていた。その間、スカルノ大統領とPKI(インドネシア共産党)の批判を込めた記事・コラムを「インドネシアラヤ」「学生インドネシア」「コンパス」「シナル・ハラパン」などの新聞に寄稿する。

インドネシア独立後、スカルノは欧米の外資を徹底的に排除し、自立した経済を目指したが失敗。深刻な食糧難とインフレを招き国内は混乱する。一方1959年より「指導される民主主義」を標榜し、NASACOM(国民党、宗教組織、共産党)のスローガンで翼賛体制を維持。スカルノの下で順調に勢力を伸ばしていた共産党と、インドネシア国軍は権力闘争で一触即発の状態となっていた。また対外的には、英領から独立建国したマレーシアとの対立で軍事衝突。さらに国連を脱退し、国際的な孤立を招いていた。
独立の父で英雄だったスカルノは求心力を失い1965年の9.30事件で失脚、スハルトに政権移譲される時期だった。

映画ではその政治の水面下で起きていた学生運動が克明に描かれる。GMNI(民族系)、HMI(イスラーム系)、RMK(カトリック系)のグループが反共産主義としてKAMI ( Kesatuan Aksi Mahasiswa Indonesia ="Indonesian Students Action Forum") としてまとまり、PKI(共産党)の解体を訴える。ギーはどのグループにも属さず、ニュートラルな立ち位置で舌鋒鋭い記事を書いた。友人のタン・チンハンが革命を夢見てPKIに傾倒していくのを危険だ警告するが、結局、彼は帰らぬ人となってしまう。
ギーはインドネシアの国のあり方として日本をモデルに考えたり(回天特攻隊の議論、日本的な近代化)、またマパラ(mapala UI インドネシア大・学生自然同好会)を結成し、登山やジョン・バエズの曲を歌ったり映画を観て議論する側面もあった。

9.30事件後、ギーの廻りも一変する。ギーはバリ島で起きた8万人の虐殺事件の記事を書くが、黙殺され、逆に発言に気をつけるように友人ヘルマンから忠告を受ける。「中国人+共産党=死」であると。また、彼の書く論説の危険性からか、ギーのパトロン的存在の富豪の娘であった恋人のシンタから別れを告げられる。彼は、友達以上恋人未満だったイラのことを想いだしている。(この辺が切ない)
ギーの父親は立派な物書きで、だから自分にも文才があったと語るが、父親は魂を抜かれたようになっており、彼が受けた悲劇を暗に物語っている。(9.30事件で華人も40万人が殺されており、華語教育や文化活動も同時に禁止されている)

1968年、あらゆる事に失望したギーは友人とジャワ島最高峰のスメル山へ登山へ。友人ムラピと別れたあと、一人登山を続け、山頂付近で有毒ガス死する。自殺なのか、事故死なのか、あるいは他殺か。享年27歳だった。彼の日記『Catatan Seorang Demonstran』(A Diary of A Demonstrator)は1983年に発行された。


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●『永遠探しの三日間』(06) リリ・リザ監督 

同じプログラムで観たが、主演男優が同じニコラス・サプトラで、これは明らかに『GIE』と対をなす戦略的な作品だと思う。ギーの生きた60'sと00's(現代)の学生の問題意識の違いがよくわかる。政治運動のかわりに、ファッション・ドラッグ・セックス・R&Rが語られる。「人生の岐路は27歳だ」といい、K.コバーンの死を語る。それは自ずとギーの早世を思い起こさせる。主人公がギーと同じインドネシア大学出身という設定も然り。

従姉の挙式のためにDKIからジョグジャまで車で行くことになったユスフと新婦の妹アンバル。二人の会話は『フラニーとゾーイー』のよう。時に衝突しつつも理解し合って行く。バンドゥン、温泉、スンダ語の会話、舞踊、カトリックの聖地センダンソノなど、旅心を誘うジャワの風景と音楽が素晴らしい。





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