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ブンミおじさんの森 [タイ]

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漫画家のクリス・ウェア(Chris Ware) によるアメリカ版のポスターのようです。
どこかマンダラ風。
21世紀映画の代表作になるのではないかと思われる傑作、『ブンミおじさんの森』は本日より日本公開。
   
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昨年、フィルメックスで一足先にこの作品を観たとき、2つの日本の小説を思い出した。
一つは、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』。(*1)865年、唐の広州から海路「天竺」へ向かった高丘親王は行く先々で奇妙な夢とも現ともわからない体験をする。東南アジアの各地で遭遇する奇妙な人々、動物、植物たちは、どうやら親王の過去の記憶が変容して現れているようにもみえる。この作品は澁澤の遺作であり、病に倒れながらこの物語を夢想している様は、腎臓病に冒され余命幾ばくもない主人公ブンミと重なる。たぶん、読んだ事のある人はうんうん、とうなずいてくれるのではないだろうか。

そしてもう一つは、「輪廻転生」をテーマにした三島由紀夫の遺作、『豊饒の海』である。その四部作の3巻目、『暁の寺』の中で、親友の転生を見届けてしまった本多という主人公が、転生の謎を解明するために、インドやタイを旅しながら仏教の「唯識」思想を考察する場面がある。読んだ当初は難解でよく理解できなかったのだが、この映画の構造が、その「唯識」という概念によく似ているのではないか?と、ふと思ったのだ。(*2)
                        
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映画『ブンミおじさんの森』は、アピチャッポン監督の『プリミティヴ』というアートプロジェクトから派生してできた作品であり、その集大成とも言える作品だ。それは彼が育った東北タイ(*3)の各地を回り、その土地の記憶や歴史を掘り起こしアート作品にするというものだ。東京でもその一部が展示されたことがある。例えば『ナブアの亡霊』という作品は、夜の闇の中、地元の少年が火のついたボールでサッカーをするという映像作品だが、ナブアという土地は60年代に共産主義者と咎められた農民たちが政府軍兵士に虐殺されたという歴史があり、その火の玉ボール(ほとんどイナズマイレブンの世界)が闇の中で素早く動く様が、まるで銃弾の火花のように見える、というものだ。劇中にもプロジェクトと連動したカットが「未来のシーン」として挿入されている。

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「唯識」に関して何かわかりやすい本はないかと物色していたら、偶然にも去年は三島由起夫没後40周年ということもあってか、井上隆史著『三島由紀夫 幻の遺作を読む』(光文社新書)という新書本に出くわした。この中で『豊饒の海』を読み解くために「唯識」のわかりやすい解説がしてある。

簡単に説明すると、「唯識」とは、「すべては心であり、心以外は存在しない」という考え方だ。例えば、目の前にあるコップも、「心」が生み出す虚像に過ぎないと考える。さらにその「心」の奥には「阿頼耶識」とよばれる深層意識があるとされる。

—「阿頼耶識」のアラヤとはサンスクリット語で「蔵(おさ)めること」「貯えること」を意味し、これは「種子(しゅうじ)」とよばれる、過去のあらゆる結果の集約であると同時にこの世(世界)のあらゆる存在(あるいは現象。唯識の立場から言えば、それはすべて心の働きによって生み出される虚像に他ならない)を出現させるエネルギー体が、そこに蔵められていることを、指していったものである。—(井上隆史著『三島由紀夫 幻の遺作を読む』より)
          
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この映画でいえば、「阿頼耶識」とは、一連の『プリミティヴ』プロジェクトであり、東北タイという土地や人々が持っている記憶や伝統や歴史であり、ブンミおじさんが思い出している世界観である。たぶんそこにはアピチャッポン監督の個人的な想い出も含まれるはずである。そして、その「阿頼耶識」は我々が観ている「映画」という虚像となって表出している、という説明ができるだろう。「映画」という虚像は刹那ごとに立ち現れては消えて行く。だが、輪廻転生の主体は「阿頼耶識」であり、これは「種子(しゅうじ)」となって、映画を観ている我々に“転生”するのである。

監督は特にタイの仏教界を肯定的に見ているわけでもなさそうだし、また、どこまで輪廻転生の理論構造を追求しているのかも不明だ。だが、これは「映画」という本質にも迫るような構造になってはいないだろうか?
ラストシーンは、まるで一つのシーンが細胞分裂したかのような錯覚を受けるが、まさに「虚像」性を強調するようなシーンだった。と同時に、2つの未来への可能性を示唆しているようにも思われる。(注…そのまま受け止めると、映画の役から素の俳優に戻ったところを捉えているシーンだと思う)

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実は「唯識」思想にはさらに展開があるのだが、それは上記の本に委ねることにする。三島の『豊饒の海』はそれを内包していて、ニヒリズム、虚無へと展開して行き、『ブンミおじさん』とは全く別の方向へ向かう。
40年前、三島が『豊饒の海』を書き、自死したのは、日本が高度成長期で劇的な変化を遂げた頃だった。その動機は想像の域を出ないが、少なくとも「日本文化の空洞化」を憂いていたことは確かなようだ。奇しくも、アピチャッポン監督は急激な変化を遂げたタイという国で同じような問題意識をもって、この映画に挑んでいることがインタヴューなどから伺える。

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澁澤の『高丘親王航海記』は、親交のあった三島の『豊饒の海』のニヒリズムに対する返歌だったように思われてならない。それは自らの魂の救済を大乗仏教の究極「唯識」に求めた三島と、南伝上座部仏教に求めた澁澤の違いにあるのではないか、と単純化して付しておこう。(*4)



(*1)高丘親王(真如法王)は平城天皇の皇子として生まれるが、薬子の変(810 年)で出家し、空海の弟子になる。空海の入定後、仏法の真理を求め弟子を連れて唐の都・長安へ行く。しかし唐では仏教がすでに衰退しつつあり、良い師を見つけられないので天竺行きを決意する。澁澤の小説は、広州から天竺へ向かう親王と二人の弟子の旅をドラコニア世界観で描く。

(*2)実際のところ、「唯識」思想というのは、大乗仏教(北伝)の思想であり、タイの上座部仏教(南伝)の教義とはかなり違いがある。それは三島も小説の中で指摘している。タイの輪廻転生という思想は、仏教以前に既にインドからバラモン教、あるいはヒンドゥー教の影響として浸透していると見られている。ちなみに三島は、タイの上座部仏教の教義がナーガセーナ長老のアビダルマ教義に源流があるとし、シャム版大蔵経から引用で「輪廻転生を惹き起こす業の本体は『思』すなはち意志である」と書いている。本来の仏教の思想に近く、「唯識」より原始的だ、としている。

「唯識」という思想は、4世紀頃のインドで活躍したヴァスバンドゥ(世観)と実兄アサンガ(無着)が極めた教義。(それを漢訳したのがあの玄奘)仏滅百年が経つと、それまで一つだった教団が意見対立から分裂して行く。大まかに上座部と大衆部に分かれ(根本分裂)、分かれた部派はそれぞれ教義や実践法を窮めていく。それをアビダルマ(部派仏教とよばれる)という。ヴァスバンドゥは、それまでアビダルマに属していて『倶舍論』を著し、のちに大乗に転じて唯識を論じたという経緯がある。

(*3)イサーン地方と呼ばれる。ラオスにも多くいるタイ・ラーオ族と、クメール系が多く、中央のタイ人とは食文化や言語が異なり、貧しい農民の多い地域にあたる。映画のロケ地はルーイ県、チャイヤプーム県、コンケーン県の三県が交わるあたりらしい。

(*4)三蔵玄奘がインドから「唯識」ほか教典を持ち帰ったのは長安(645年)。高丘親王(信如)は弘法大師の弟子になった後、長安に出向く(864年)。時に長安は仏教の衰退がすさまじく、真理を求め、長安を出て広州から天竺への旅へ。


(この文章は「旅シネ」に掲載したものを再構成し、加筆したものです)


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拾い読みしかしてませんが、トニー・レインズや『想像の共同体』のベネディクト・アンダーゾンなどが寄稿している。アピチャッポン監督自身による作品解説が読める。


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